時事中年

〜デイリー・ジャポン〜

「久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった」を読んで・・・第四章編のつづき

スポンサーリンク

 「ニュースステーション」は開始にあたり3つの業界タブーを侵すことになります。その3つとは・・・ 

 

 1.テレビ局の報道の分野に、外部の制作会社が入ること

 2.プライムタイムに、視聴率の見込めない大型のニュース番組をつくること

 3.キャスターに、報道現場を全く知らない他局出身のタレントを起用すること

 

 現在のニュース番組を見れば、上記の3つは当たり前のこととなっています。しかし当時は大冒険だったことと推察されます。

 

 「現場にいかへんやつを、キャスターって呼ぶなや」 
 
 土曜の大阪制作の番組の生番組の司会を務めていらした板東英二さんはよくこうおっしゃっていましたが、これは久米さんのことだったのでしょう。当時中学生だった私には知る由もありませんでしたが。 

 

 「ニュースステーション」開始にあたり、久米さんは「おしゃれ」以外の番組をすべて降板します。「ベストテン」のスタッフと黒柳徹子さんとはかなりもめたそうです。しかし「自分が芸能人扱いされることに違和感を覚えていた」(本文より)久米さんの意思は強かったのです。しかし義理は欠けず、「ニュースステーション」開始の年の4月まで「ベストテン」の降板は延長されました。 

 
 この後久米さんは倉本聡さんが主宰する「富良野塾」へ行きます。倉本さんに、キャスティングの相談に行くためでした。 
 
 しかし、倉本さんは一癖も二癖もある方です。久米さん(と、他の塾生)に、丸太小屋建設のための穴掘りや土運びをさせたそうです。疲労のため夜に行われる倉本さんの講義はほとんど覚えていなかったそうですが、一つだけ覚えていることがあるそうです。 
 
 「人間には陰と陽の人がいて、ドラマの出演者を決める場合、主役級は半分以上が陽でなくてはならない」 
 
 これはその後番組のキャスティングに大いに役に立ったと、久米さんは書きます。 
 
 こうして1985年10月、「ニュースステーション」がスタートします。 
 
 しかし視聴率は2ケタに届きません。そんな日々が続きます。 
 
 久米さんはお祓いをすすめられて、受けたりもしました。私自身、お祓いみたいなのを信じるのは保守派の人たちだけだと思っていましたが、久米さんがそれをやっていたとは・・・。それくらいせっぱ詰まっていたのでしょう。 
 
 お祓いが効いたのかどうかはわかりませんが、徐々にその効果が現れます。そのきっかけとなったのが、1986年1月に起こったスペースシャトル「チャレンジャー1号」の爆発事故と、1986年2月に起こった「フィリピン2月革命」だったそうです。 
 

「チャレンジャー」はCNNの映像が手に入ったこと。「フィリピン革命」はレポーターだった安藤優子さんがNBCに入ってくる情報に耳を傾け、それを国際電話で伝えるという行動に出たこと。これらが番組に躍動感を与えたそうです。「フィリピン革命」のときの視聴率は19.3%(!)。 
 
 この後「ニュースステーション」は若林正人さんの「夜桜中継」、栃木なまりの立松和平さんの「こころと感動の旅」など、ヒット企画を連発します。 
 
 久米さんが座右の銘にしている言葉があるそうで、 
 
 「風俗を語るときは政治的に語れ。政治を語るときは風俗を語るように語れ」 
 
 ジャーナリスト・大宅壮一さんの言葉です。 

 
  (この項、つづく)